《特別対談 山出 保×浦 淳》多様性を可能性の源泉に“世界趣都 金沢”へ
2019年の趣都フォーラムで発行したタブロイド誌「趣都金澤 今の金沢って、好きですか?」に巻頭特集として掲載された「世界趣都 金沢2030年」の提言について、金沢が目指すべき都市像について、前金沢市長の山出保氏と趣都金澤の浦淳 理事長との特別対談インタビューです。
─ 山出さんが最近言われている金沢の「都市力」と「都市格」とはどういったことですか。
山出 「都市力」は基盤整備、人でいえば体力や骨格にあたるハード面。「都市格」は、人に人格があるように、都市にも都市格があるべきという考え方で、文化的な側面で捉えるもの。「まちづくりに気品を」との考えです。先日も講演で話しましたが、金沢では「金沢港の建設」「金沢駅の改造」「環状道路の整備」という3本の柱が「都市力」を高めてきました。三八豪雪(さんぱちごうせつ)※を受けて始まった「金沢港の建設」がまちづくりのスタートだったといえます。
※三八豪雪:昭和38年(1963年)の1~2月にかけての記録的豪雪。金沢でも積雪量が181cmに達し、陸上交通が途絶した。
浦 三八豪雪が金沢のまちづくりに影響しているというのは、とても興味深い。当時をよく知る山出さんから詳しくお話をうかがってみたい。
山出 2階から出入りするほどの大雪でした。豪雪の期間中に知事選と市長選の同時選挙が行われ、知事の公約は、豪雪で輸送が途絶えたことから「北陸自動車道の建設」。市長の公約は、海上輸送のための「金沢港の建設」でした。
浦 「金沢港の建設」「金沢駅の改造」から50年を経て、温めてきたものが新幹線の開業で随分花開いたと思います。今、私たちが受けている恩恵は、いろいろな方が積み上げられてきたもののおかげだと感じます。
山出 国の重要港湾としての「金沢港」の建設は、昭和39年(1964 年)の御用納めの日に決まりました。年明けから始まった用地買収は、港と「金沢駅」の中間にある国道8号から港までは県が、国道8号から駅までは市が分担しました。面積は460ha。土地区画整理事業で、これほど大規模なものは博多と金沢だけです。
1970 年に一部開港を行い、それから港湾背後地の形成が進むにつれて人と貨物の動きが生まれました。自ずと駅の西口の整備が必要だという意見が経済界から出てきて、そこで行ったのが客貨分離。当時の「金沢駅」では人と貨物を一緒に捌いていた。それを分けるための新たな貨物基地を隣接する乙丸町などに求め、33万㎡の用地買収が行われました。
浦 「金沢駅」はとてもよくできた駅。東側と西側を車でスムーズに通過できる。これは高架を随分昔から考えられてきたから。駅周辺の路上にタクシーの列がないことも、タクシーの待機場と乗り場、客の動線がしっかり設計されているから。こういう駅は非常に少ないと思います。
山出 「金沢駅の改造」では、犀川から浅野川の区間の線路を2階に上げる鉄道の高架化(連続立体交差化)も大切な事業でした。これは県が担当しました。一方、「金沢駅」の広場の整備は、東側も西側も市が担当し、このときに「金沢工業大学」教授の水野一郎さんの指導を受けました。電車から降りたお客さまが迷わないで、直にまちなかの大通りに出られるように、歩行の動線に気をつけようと盛んにおっしゃったのを今も忘れません。
浦 「金沢駅」のコンコースに立って、駅の西口から東口までが真っ直ぐ見える。そして大通りに出られる状況が目に見える。そうした設計理念があって、今こうして新幹線を迎えることができているわけですね。
山出 港の開発が進み、駅周辺の交通環境が良くなると、次はまちなかの混雑が起きました。まちなかに流入する車を拡散する方法として、環状道路をつくりました。
浦 「山側環状」「海側環状」ができたことで随分と便利になりました。まちなかの交通混雑が解消されて、県内各地や県外への移動時間と距離が短縮されましたね。
山出 市民の皆さんからも「能登が近くなった」「加賀が近くなった」と言われ、効果は確かにあったと思っています。
浦 「金沢港」周辺のベイエリアは注目している地域です。金沢市が工場用地をつくり、コマツ(小松製作所)の工場が出来て、県外への流出が防げた。港を整備したおかげで、今では大型クルーズ船も来る想定外のチャンスも生まれました。また、宮腰地区(金沢市金石の旧地名)は古い歴史があり、ベイエリア一帯には北前船の歴史や、味噌・醤油づくりが盛んな地域、農耕が盛んな地域など、もう一つの金沢の魅力が詰まっています。駅の東の兼六園側は伝統的・文化的な地域で、それをいかに守りつつ価値を高めていくかが課題。駅の西側は海側地域と駅西地区を一体的にしながら、若々しさやビジネスなどの新しい創造性が発揮できるまちになれば。金沢はそうした二面性を持つことが大事ではないでしょうか。
山出 環状道路整備事業の施工面で、間違いなく価値があったことが二つ。一つは事業主体を多様にしたことで、卯辰山トンネルは国が、涌波トンネルは県が、野田トンネルは市が行った。もう一つは、多様な補助メニューを使ったこと。環状道路の整備区域に合わせて道路事業や街路事業、土地区画整理事業の予算を計画的に、効果的に使ったので早く出来た。金沢弁で「はしかい」やり方をしたわけです。
浦 水野一郎先生が金沢の都市づくりに相当関わられていると言われましたが、都市計画に建築家が関わったことにも大きな意味があると思います。
山出 僕は建築家と話をすると楽しい。だが、難しい。怖い。土木関係の方々は物差しが決まっていて、街路樹は何mおきなど、工期を守って注文に応えることを大事にする。建築家は、それぞれ個性をいかに前に出すかを議論する。
浦 日本のまちづくりは、経済重視で効率性を考えて合理主義的にハード整備をしてきたところが多い。お話から「都市力」の基礎は単に便利さだけでなく、まちの発展基盤をいかに長期的な視点と全体のつながりを考えてつくるかが大切だと思いました。こうした50年、100年先を見越して基礎を整える観点を、どう表現したらいいでしょう。
山出 僕なりに言うと、それは「都市の可能性」ではないかな。可能性を引き出し、創り上げていくことだと思う。
浦 金沢のまちづくりで「都市の可能性」を県と市が共有していたことも素晴らしい。縦割りでバラバラに行うのではなく、想いを共有して分担している。事業を支えた技術者の人たちも、全体の理念、都市の可能性を共有して計画の筋道を引いたので「都市力」につながったのだと思う。
山出 喧嘩もしたが、酒も飲んだりして仲良くやっていました。県と市の関係が密だから、こうした大きなプロジェクトが出来た。このプロジェクトが金沢のまちづくりの基盤をなし「都市力」の源泉になったと思っています。
浦 公共建築は前提である建設理念がしっかりしていると、これを建てることでまちが変わると実感でき、自然に設計にも力が入る。これは技術者も行政職員も同じではないでしょうか。
山出 僕が心配していることは、港・駅・環状道路をつくる事業が完成してなくなったこと。そうすると技術者のスキルも、県・市の職員のスキルも落ちないか危惧しています。
─ 金沢の「都市格」はいかがでしょうか。
山出 「都市格」に関わる仕事として「金沢城公園の整備」「しいのき緑地の形成」「金沢21世紀美術館の誕生」の3本の柱を挙げたい。金沢城の歴史をたどると、侍がいて、その後は軍隊、金沢大学が入り、次に県が国から用地を取得して公園を整備した。
市長時代、中西知事があるとき言うわけです。「僕(石川県)は城の中を買うから、君(金沢市)は附属の学校跡を買えよ」と。その時は「やりましょう」と言って帰ったが、「市が購入する用地の値段が高い、失敗したか」と思った。しかし、お城の方が修復に時間も金もかかる。中西さんはそこまで考えて言ったのだろうと、結局は進めることに。石川県は大学の土地を購入してお城を復元し、金沢市は大学附属の小中学校の土地に「金沢21世紀美術館」をつくりました。
浦 私は18歳で大学進学のため金沢を出ました。子供の頃は普通に見えていた金沢が、少しずつ特殊な地方都市という位置づけに成長していることが県外にいても伝わってくる。そして、27 歳で金沢に戻ると以前と違う雰囲気を感じました。その後、「金沢21世紀美術館」が出来ましたが、その衝撃は非常に大きかった。金沢は前田の殿様が京都から人を呼んで新しい文化を取り入れ、殖産興 業として発展させてきましたが、「金沢21世紀美術館」が現代の新しい文化の源泉を生み出したように感じました。
山出 「金沢城」の整備事業もあとわずか。「尾山神社」とお城の間に門をつくって橋を架けるほか、「二の丸御殿」を復元する話もあり、この二つが県に残された仕事。「金沢城」と「兼六園」、「本多の森公園」「しいのき緑地」「いしかわ四高記念公園」「金沢21世紀美術館」に「尾山神社」の社叢を加えると合計面積は60 h aほど。今、日本の地方都市で、真ん中にこれだけの空間を持つまちはないと思う。「跡地に何もつくらない」のは、まさに見識。賢明かつ貴重な判断です。県民・市民は絶対に大切にしなければいけない。ここは金沢の「都市格」に関わると言いたい。
浦 世界に冠たる文化ゾーンになる可能性を秘めています。「しいのき迎賓館」から「金沢21世紀美術館」「金沢歌劇座」「中村記念美術館」、坂を上がると「石川県立美術館」があり「国立工芸館」も移転してくる。「兼六園」「金沢城」と建設中の「鼠多門」で「尾山神社」までつながる。「石川県立図書館」が小立野に移転した後の跡地も重要です。
山出 2019年夏、寺町台に「谷口吉郎・吉生記念金沢建築館」が出来るので、この寺町から本多町の「鈴木大拙館」への回遊路も整備していかねばならない。そして「鈴木大拙館」から「本多の森」「金沢21世紀美術館」などへの回遊性。僕は本多通りを重視していて、県立図書館が移転して空いた跡には、ものがない方がいいという論者。何もなければ本多通りから小立野の斜面景観をつくることができ、お城の石垣の景観が本多町へと延長され回遊路の中身が豊かになる。このことで「都市格」をさらに高めたい。
浦 「鈴木大拙館」は建物も素晴らしいが借景も素晴らしい。季節の移り変わりに心打たれる。ここも高層マンションの建設構想があったが、建てなかったことで守られたものがあると思います。「石川県立図書館」の跡地に何もつくらないということも、大きな意味を持つ可能性があります。
─ 50年、100年先を見据えた骨格形成で何が焦点ですか。
浦 「趣都金澤」が「世界趣都 金沢2030実現への12のメソッド」という提言で掲げた2030年までの間に、2023年には敦賀まで北陸新幹線が延伸し、2025年に「大阪・関西万博」が開催予定。その中で、金沢が北陸のゲートウェイとしての機能を持つ必要があると思っています。 なりたいとか、なりたくないではなく、ここが上手くいかないと日本全国の他の都市も上手くいかないのではないかと。面的に捉えて金沢・福井・富山・能登・加賀といった各々の地域の役割分担がどのように出来るか。さまざまなブランドで売るのではなく、金沢を北陸のゲートウェイとして位置付けていくことを意識した方がいいのではと思っています。
山出 小松に新幹線が開通することも、金沢や北陸全体に変化をもたらすでしょうね。
浦 「小松空港」に2019年4月から小松-香港定期便が週2便着き、今後も新幹線延伸を見込んで国際線が複数就航する可能性があります。小松は新幹線の駅から空港まで車で約10分で移動でき、本州日本海側のハブ空港となる可能性もある。「小松空港」が空、「北陸新幹線」と「北陸自動車道」が陸、「金沢港」が海の玄関口として近い立地で県内に揃うことは、金沢が国際都市になるためにも重要。将来的に国全体の中での役割が出てくるのではと思っています。また、金沢が「もう一つ上の都市格」を目指すときには、多様性をどう盛り込み、担保していくかが大切ですね。
山出 「世界趣都 金沢」の実現を目指す提言にも「異質なものが組み合わさることは、創造性の源泉」とありました。異文化コラボレーション、多様なものが交わることが力になるというのは大事にしたい。かつて僕は「多様性は可能性を生む」という言葉を学びましたが、もう一つ「多様性は可能性を生み、持続性につながる」と付け加えたい。
浦 多様性、重要ですね。東京の多様性は、真っ白なキャンバスに自由に絵を描くイメージ。対して、金沢は既に色のついた小さなお椀。そこに、いかに多様性をのせていけるかがキーだと感じています。金沢の特徴は戦争で焼けず、まちの骨格も「都市格」も、蔵のお宝も残ったこと。明治維新までは全国4 番目の都市で、前田家によって文化が花開いたまち。そんな金沢でしか出来ない多様性を許容し、可能性を開き続けていく仕組みが大事だと思います。
山出 僕は多様性のないまちは嫌いだ。例えば企業城下町。ごちゃごちゃしているまちの方が面白い。逆に多様なものがあると面倒かもしれないが、それをクリアしていかないといけないし、面倒なことも面白いと思わないといけない。
浦 精神的な面で「人にとても優しいまち」「道徳的な観念があるまち」「哲学的なものがあるまち」といった理念のあるまちづくりも必要ではないでしょうか。最近の経済人の議論では、インバウンドに対して必ず「文化的な富裕層を呼ぼう」という話になる。これを私はつまらないと思う。文化好きであれば富裕層でもバックパッカーでも来て欲しい。貧富や人種で分けない多様性を大事にしたい。
山出 僕は文化的価値の商品化というのは嫌だな。これは避けたい。
浦 青年会議所の時代に書いた「趣都・金沢構想」に、「金沢の主幹産業を観光に」という提言を盛り込むように周りから言われました。しかし、金沢のまちの力を高めて、それが巡って観光になる順番でないとおかしいと思いました。「金沢21世紀美術館」は観光スポットになりましたが、美術館の企画が世界でも高水準にあるから、人が集まって来る。これが本物ではないと思われれば、次は来なくなる。金沢の観光も「先に都市格ありき」だと思うのです。
─ 多様性を可能性の源泉にする都市の仕掛けづくりに何が必要ですか。
山出 高度なガバナンスが必要だね。ガバナンスの主体も多様になっていくでしょう。多様性と可能性を広げるのは、僕は究極には学術と文化だと思う。学術と文化がしっかりしていて、市民団体と提携ができて初めていいものになっていくと思う。専門家の意見を聞く姿勢が市民にないといけない。有識者や学者も、市民の意見を尊重して聞くべき。そこの接点が、まだ弱いと思うんだ。
浦 金沢は、まちの中心にしっかりした学府があった方がいい。「金沢大学」が郊外に出ていってしまったことは残念。
山出 だから僕はまちなかに大学が機能する、学生がいられる場所として「金沢学生のまち市民交流館」をつくった。「まちなかに小さなスペースを確保する」というのを、「趣都金澤」の提言にしてもいいのでは。
浦 「趣都金澤」は20人以上の大学の先生方が在籍し、所属も専門も多様です。プロジェクト単位で集まる中で、それぞれの知恵が出てきます。そういう場面を作り出せる場所をもっと増やしていきたい。また、国際化、文化を売っていくためには海外にどう展開していくかも重要で、国際性のある大学や教育プログラムも大切。こうした視点も、まちづくりに加えられていくといいですね。
山出 それは金沢でないとできないことだ。学術文化都市の金沢だからこそできる。少なくとも日本海側でトップを行こうよ。
浦浦 最近、欧米の「実験的都市」という議論の中で「アーバンラボ」という話題がよく出てきます。まちづくりを大学と一緒になってやっていく、まちの研究所ですね。日本でも生まれてきていますが、文化的なアーバンラボはまだありません。「学術と結びつくまちづくり」を「趣都金澤」の提言書にも加えていきたいですね。また、金沢中心部の「文化ゾーンの連続性・回遊性」もぜひ実現したい。
山出 今回の提言の目標が2030年というのは意外でした。思いのほか近かった。ぜひ実現に向けて頑張ってください。
前金沢市長 山出 保
1931年金沢市生まれ。’54年に金沢大学卒業、金沢市役所に入る。’87年、金沢市助役に就任。’90年、金沢市長に初当選し5期20年在職。2003年6月から全国市長会会長を2期4年つとめる。’13年、石川県中小企業団体中央会会長に就任。日本建築学会文化賞、日本イコモス賞ほか受賞。フランス共和国レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章。『まちづくり都市 金沢』(岩波新書/2018年)、『金沢らしさとは何か』(北國新聞社/2015年)ほか著書多数。
認定NPO法人 趣都金澤 理事長 浦 淳
1966年金沢市生まれ。大阪工業大学工学部建築学科卒業後、大手建設会社を経て’93年に「浦建築研究所」入社。20 06年、同社代表取締役に就任すると共に、経済人や学識者の仲間と「趣都金澤」を設立し理事長に就任。「ノエチカ」代表取締役、「日心企画(大連)有限公司」董事長などをつとめ、建築設計・企画デザイン・各種コーディネート事業などを通じて、北陸の建築・文化の世界発信を目指す。
取材・文/坂下有紀 撮影/イマデラガク 協力/鈴木大拙館